想像以上に男を感じたその手に
私はただ肩を震わせる事しかできなかった。
フリックの手がへと伸び、
その白い腕へと触れようとした時、が瞳を大きく見開いた。
「!!?」
そして勢いよく立ち上がったを見て、今度はフリックが驚きで瞳を開く。
に触れる事無く終わったその手が不自然に揺れる。
「?」
只ならぬ表情で辺りを見渡すに、流石のフリックも意識を入れ替えて周りを見るが
左程周変異は変化の感じられなく、フリックは眉を顰めた。
「、どうした?」
再度目の前で意識を集中しているへと声をかける。
は返事を返す様子も無く、宿へと視線を移していた。
「・・・・・・。」
そして上に何かを感じたのか、2階を見つめ顔を顰めた。
「ごめんなさいフリック。少し様子を見てくるわ。」
「あ・・おいっ。」
引きとめようとするフリックの腕をすり抜け、は先ほど酔いが回っていたのが嘘のように
しっかりとした足取りで宿へと入っていった。
外に残されたのは、ため息を一つ吐くフリックと、
相変わらず鳴き続ける虫達の声だけだった。
突然入ってきたに、どうしたのかと聞くビクトールとレオナに一応何でもない。
と一声かけ、足早に2階の階段を駆け上る。
―――なんとなく。なんとなくだけど・・・・・・・・。
(胸騒ぎがする・・。・・・・・・・・・・それに。)
―――感じたことの無い人物の気配。
は迷う事無くその気配のする部屋へと向かった。
足が進むにつれて何故かいやな汗が流れる・・・。
宿の廊下は夜のためか静かで、人の話し声さえ聞こえてこない。
しかし何か感じる不思議な気配にはある一室の前に立った。
耳を澄ましても中から声が聞こえてくることは無い・・・・・。
だがとてつもない不安と黒い影を感じ、はノックもしないままノブを回した。
「―――――・・・・・!」
勢いよく、しかしあくまでも静かに開いた扉の向こうにいたのは・・・・・・・――――
「ジョウイ・・?」
誰もいない暗い部屋でジョウイは一人、部屋の片隅に立っていた。
「・・・・・・・。」
は一歩部屋の中へと足を踏み入れるも、辺りの警戒を怠らないよう注意した。
(――窓は開いている・・・・。だけどここは2階・・簡単に誰かが出入りするとは考えられない・・・・・・。)
は廊下からの灯りと、窓から溢れる月の光りを頼りにジョウイへと近づいた。
「ジョウイ?」
ジョウイの肩に触れた瞬間、大げさなほどにジョウイがビクリと身体を揺らす。
「さん?何故ここに・・・っ?」
「何故・・って、少しおかしな空気がしたから来てみたの。」
驚く・・というよりも、怯えているような表情のジョウイを見て辺りを再度確認する。
「誰かいたの・・?」
「いえ・・・・。」
すぐに返ってきた答えには眉を顰めるも、息を吐いて頷いた。
「そう・・。流石にここまで王国軍が来るとは思えないけど・・・、何かあったら言って?」
「はい。」
――――――――「はい。」
そうの目を見て返事をしたジョウイは、先ほどの怯えた表情が嘘のようだった。
強く・・・・・・色濃い瞳。
何かを射抜くような、真っ直ぐな瞳に、は何故か胸騒ぎを覚えた。
あの嫌な気配が忘れられず、は一睡もする事無く夜を過ごした。
そしてジョウイの瞳も・・・フリックの腕も・・・・・・頭に焼きついて離れなかった・・・・・・。
「よう。」
「おはよう、ビクトール。」
宿の扉を開けて入ってきたのは、昨日の酒など無かった事のように思わせる元気なビクトールの声。
「お前、昨日の酒がまだ利いてるんじゃねぇか?顔色悪ぃぞ。」
「あ・・大丈夫。ただの寝不足よ。」
そんなにひどい顔をしているのかと恥ずかしくなり、思わず片手を額に持っていく。
「・・・そうか。まあ王国軍もまたいつ攻めてくるかわかんねぇからな。
あまり無理すんなよ。」
そう言っていつの間にかカウンターへと入っていたビクトールが、目の前に水の入ったグラスを置く。
勢いよく水を注いだのか、グラスの周りに付いているたくさんの水滴が彼らしい・・・・・・
と、思わず柔らかな笑みがこぼれる。
「ありがとう・・・。ベッドが空いたら少し休ませてもらうわ。」
「ああ、そうしてくれー。」
そんな軽い口調で、背を向けて手を振るビクトールは2階へと上がっていった。
目の前に置かれた水に微かな波紋が浮かぶ。
周りに付いていた水滴は下へと落ちるたびに、古びた木製のテーブルへと吸い込まれていった。
朝陽を浴びてキラキラと光るそれを一息で飲み干し、は外の空気を吸おうと重い腰を上げた。
そして丁度外へ出ようとしたその時、階段を降りてくる何人かの足音が聞こえ後ろを振り向く。
「あれ?さんも何処かへ行くの?」
朝のわりに元気なナナミ。そしてその後ろから少し眠そうなと、あからさまに眠そうなジョウイが降りてきた。
「ええ。少し外の空気でも吸おうと思って。あなた達も何処かに行くの?」
「うん!アナベルさんの所に。」
「アナベルさんの?」
「ゲンカクじいちゃんの話を聞きに行くんです。」
(ゲンカク――――!)
思ってもいなかった名前に驚きながらも、なるべく顔に出さぬよう声も抑える。
「そう・・。気をつけていってらっしゃい。」
市庁舎に行くだけなのに、何故かそんな言葉が出た。
「はい。いってきます。」
少し緊張している様子のを先頭に、扉の向こうへと出て行った。
すれ違いざまのジョウイは、誰が見てもいつも通りだ。
(だけど・・やはり気にはなるわ・・・・。)
はテーブルに置きっぱなしだったグラスをカウンターへと戻し、
彼らを追うように宿を後にした。
そしてすぐにでも追いかけるつもりだった・・・・。
「フリックっ・・・・。」
「ああ。、起きたのか。」
宿の外へ飛び出すと、予想もしていなかった人物と出会った。
フリックは朝方から訓練をしていたのか、汗だくになりながら剣を握っていた。
「フ・・フリックは訓練?」
昨日の事を鮮明に思い出し、口が上手く回らない・・・・・・。
「ああ・・。王国軍が迫ってきているしな。」
「そう。」
フリックと視線を合わせられないまま、どのタイミングでここを立ち去れば良いのかを考える。
しかし咄嗟の出来事だったため、そんな事を冷静に今考えられる事はには出来なかった。
「。」
「はっ・・はい。」
変に返事をするに、フリックも困ったのか少し自嘲気味に笑みをこぼしている。
「昨日の事は・・・・・・・忘れてくれ。」
「え・・?」
予想していなかった言葉には今日初めてフリックと視線を合わした。
フリックは剣を鞘に戻し、汗を拭きながらこちらへと近づいてきた。
昨日の事を意識してしまい、はフリックとは違う汗を流す。
そして手を伸ばしても届かない、微妙な距離のままフリックが口を開いた。
「昨日は手荒な事をしてすまなかった。」
「あ・・ううん。」
「俺は・・・お前の事を大切な仲間だと思っている・・。そして何からも守りたいと思っている。」
「・・うん。」
いつも通りの・・空色の真っ直ぐな瞳をは見つめながら頷いた。
「お前を失う事が・・・今は一番怖いんだ。」
「・・・・・・・・。」
「それがどんな形でも。」
「どんな形でも・・?」
「―――だから・・・・・・・俺の傍にいてくれないか。」
最後の言葉の時だけ視線を合わせない彼が、
いつもの彼とは少し違うことを物語っていた。
「フリック・・・・。」
「あ・・いや、別に死ぬまで居てくれってわけじゃないんだ。
せめて・・・・・・この戦いが終わるまで・・・・・・・お前を守らせてくれないか。」
これは・・・・・約束だ。
見えない線と線で結ばれるモノ。
今までこんなモノは、苦痛でしかないと思っていた。
だって、その線を切らなくてはいけなくなった時・・・・・・・・・・・・・自分以上に相手を苦しめることになるから。
彼が・・・・そうだった。
彼との約束を守れないまま私はそこを去ったのだ。
―――――「。今日、あそこに来いよ。」
言葉こそ交わさなかったが、そこで私は笑顔で頷いた。
既に果たせる事の無い約束を・・・・・私はあの時してしまったのだ。
はふと目の前の青を見つめた。
あの時と同じだ・・・・・・・・・・・・。
その真っ直ぐな・・私の答えを待つ瞳。
色は違えど、求めてくるものは一緒・・・・・・・・・。
「うん。」
が短く返事をすると、フリックは安心したような息を吐き出し
いつも通りの笑顔を向けてくれた。
もいつも通りの笑みをその空色へと向ける。
今度は守れる・・・・・・・・。
守りたい。
そう心から思った。
「そういえば、どこか行く所だったのか?」
思い出したかのように問いかけるフリックに、はがばりと顔を上げた。
「あっ!」
達を追いかけるつもりが、かなりの長居をしてしまった。
思わず彼らが向かった方向を見ても、いるわけもなく・・・・・・。
「うーん・・・。」
(仕方ない。宿で待つしかないわね。)
「どこか行くなら俺も付いていくか?」
「あっ、大丈夫。外の空気吸いに来ただけだから。もう少し宿で休むわね。」
「ああ。わかった。」
軽く手を振り、再度宿へと入って行ったを見つめ、
フリックは笑みを浮かべながらも、切なくその瞳を細めた。
「どんな形でも・・失いたくないんだ・・・・・。」
―――――だから・・・今は・・・・・・・・・まだ・・・・・・・・・・。
開けておいた窓からか、どこかの食事の香りが風と共に流れてくる。
はためくカーテンの音が心地よく、は寝返りをうった。
「・・・・?」
うっすらと瞳を開くと、既に想像していたよりも遥かに陽が暮れていることに気が付く。
「嘘!」
瞳を見開くよりも早く起き上がり、朝にウトウトと寝てしまったことを思い出す。
靴も脱がずに、毛布もかけずに、ただベッドへと横になりこんな長い時間寝てしまっていたのだ。
そんな自分が信じられず、驚きで思わず口に手をあてる。
(そんなに安心して眠っていたの・・・・?)
ふと窓の外を見ると、既に空は紅色へと変わっていた。
それでも今空を見て思い描いたのはフリックだった。
(そんなに・・安心して・・・・。)
窓から再度流れてくる夕食の匂いに、はまた勢いよくベッドから降りた。
「あの子達―――!」
彼らは無事に帰ってきているのか。
街中を移動するだけだが、何故かそんな不安が勢い頭を駆け巡った。
そして慌てて扉を開くと、丁度2階へと上がってきた少年と出くわした。
「ジョウイっ。」
「・・さんっ?」
咄嗟の事だったためか、ジョウイの浮かない表情はその瞬間だけは隠せないままでいた。
「ジョウイ・・・。やっぱり私聞くわ。
貴方・・・何を隠してるの?」
今まではただの思い過ごしかと思っていた。
思い過ごしでないとしても、彼の心に勝手に入り込むようなことはしたくなかった。
(・・・・・だけどっ・・。)
昨日の黒い気配といい、は何かよからぬ事が起きようとしているのではないかと不安が募っていた。
ジョウイは黙ったまま、視線を落としていた。
「ジョウイっ・・・。」
思わずが彼の腕を掴む。
ジョウイはそれにすらも反応を示さず、少しきつく瞳を閉じた。
そしてその瞳が再度開かれた時、今度はきちんと自分を見据えてくれていた。
「さん・・・この戦いはすぐには終わりません。
貴女も・・すぐにここを出た方が良い・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・っ?」
(何を――――)
「もし・・僕に何かあっても・・・・・・・・・・。」
「ジョウイっ?」
ジョウイは彼の腕を掴んだままのの手をそっと反対の手で包み、
静かに自分の腕からそれを離した。
「僕は・・・貴女に死んでほしくない。」
寂しくそう呟いたジョウイは、踵を返し下へと向かった。
「まっ・・待ってジョウイ!」
すぐさま彼を追いかけようとしただが、後ろに微かな気配を感じ、振り返った。
「ピリカちゃ・・・・。」
そこには顔をいっぱいいっぱいに哀しみに染めた小さなピリカが立っていた。
そんな彼女を置いていくわけにはいかない・・・・。
「ピリカちゃん・・・・・・大丈夫・・。大丈夫よ・・・・・・・。」
そう言いながら、小さな彼女の身体を抱きしめた。
ピリカの瞳は・・・・ジョウイの向かった方向へと注がれたままだった。
「あれ?さんとピリカちゃん?」
近くで突然開かれた扉から、ナナミとが出てきた。
「どうかしたんですか?」
不思議そうに質問してくるに、が少し焦った様子で立ち上がる。
「ジョウイが――っ・・・・・。」
「え?ジョウイ?そういえばこれからまたアナベルさんの所に行くのに見当たらないんだ。
さんジョウイを見たの?」
「え・・?アナベルさんには朝に会えたんじゃなかったの?」
質問に答えないまま、がナナミへと質問を返す。
ナナミは少し焦りながらも、一生懸命朝の事を説明してくれた。
「えっとね、会えたには会えたんだけど、忙しくてお話が出来なかったの。
それでもう一度行く事になってるんだけど・・・。ジョウイ先に行ったのかなぁ?」
どうしてもジョウイの事が読めないは、少しでも情報を引き出そうと頭を回す。
そんな時、が何かを思い出したかのように「あ。」と口を開いた。
「そうえば、朝僕達がアナベルさんの部屋を出た後、ジョウイだけ少し残って何か話してたけど・・・。」
それと何か関係があるのかな・・?とは首をかしげた。
(アナベルさんと2人で・・・・?)
―――――この戦いはすぐには終わりません・・・・・・・。
(ジョウイ・・・?)
―――――貴女も・・すぐここを出た方がいい・・・・・・・・・・・。
「!!―――!」
「えっ・・はいっ・・。」
「あなたにジョウイから何か今日言われた事はない?」
「言われた事・・ですか?」
「そう!なんでもいいの!少しおかしいなと思った言葉か何か―――!」
初めて見る様子のに、ナナミとピリカが驚きをみせる。
も一瞬たじろぐが、とにかく一生懸命思い出そうと努力をしている。
「――――逃げた方がいい・・・・・・・・・・・。」
「え・・・?」
同じ言葉がとナナミの口からこぼれる。
「それに・・もしジョウイが死んだらピリカの事を頼むって・・・・。
僕・・ジョウイが何を言い出したのかと思って驚いて・・・・・・・・・・・。」
「さん!?」
はの言葉を聞いた瞬間にそこを飛び出していた。
信じられない歩数で階段を降り宿を出て、誰かにぶつかるのも気にしないまま全力で走った。
まさか!!まさかそんな!!!
絶対にそんな事はない。という事を頭に駆け巡らせても、足が遅くなる事はなかった。
もっと早くに・・・・もっと早く気付くべきだったんだ!
――――――王国軍に連れ去られた時のルカ様との対面。
――――――絶対に有り得ないと思う程、駐屯地から簡単に逃がすことが出来た・・・。
――――――それからのジョウイの表情・・・・。腰に付けていた短剣・・・・・・・。
「!!!!」
は走りながら、何かを思い出し瞳を見開いた。
何故気付かなかったんだろう・・・・・・・!
あれは・・・・・・・・
あの短剣は・・――――――
ハイランド製の物だ。
(――――ルカ様・・・貴方という人は・・・・・・!!!)
は無意識に唇を噛み、その血の味さえ感じないほど憎悪の気持ちに包まれていた。
彼にそんな事をさせようとしたルカと・・・・・・・・・・・。
全く気付けなかった自分へと・・・・・・。
止められる市庁舎の人たちを振り切り、一番奥の部屋を目指す。
ここの間取りはハイランドに居た時から頭に入っていた。
こんな時にあの時期の事が役に立つなど・・・・。具合が悪くなりそうだった。
「ジョウイ!!!!」
まるで蹴破るかのように扉を開け、咄嗟に彼の名を呼んだ。
そこに彼がいない事を祈りながら・・・・・。
が叫んだ声と共に、グラスの散る音が頭に響く。
その瞬間、の願いは無残にも砕ける事となった。
全てが一瞬の出来事だった・・・・・・。
目の前へと倒れるアナベル。
そしてこちらを振り向き、驚愕とも言える表情のジョウイが、
身体を震わせながらも素早く窓の外へと飛び出した。
「ジョウイ!!!!」
無意識に後ろからとナナミが来るのを感じた私は、
そのまま彼らにアナベルの事を任せると勝手に判断し・・・・・・・・・・・・、
ジョウイの後を追っていた。
