<獣と刃と、時の狭間に>
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「ちょっと、放してってばっ!!」
は、自分の左腕を捕まえている背の低いハイランド兵の腕を、右手でねじって投げ飛ばした。そして右肩を掴んでいる背の高い方の兵の腕首を、<天雷の札>を隠し持っていた左手で掴み、直接体表に電撃をお見舞いする。
背の低い兵士は、腕に酷い火傷を負った背の高い兵士を助け起こし、後退した。
ほっとするのも束の間、今度は十数人の兵士が彼女の周りを取り囲んだ。それぞれ剣や槍など、思い思いの獲物を手にしている。
「もう!! 鬱陶しいわねっ!!」
の額が輝いたと思うと、<旋風の紋章>が発動する。
──切り裂き。
ものの数秒で片が付いた。其処にいた全ての人間が、突然城の中で起こった旋風に巻き込まれた。壁に叩き付けられ、床に倒れ込んでいる。
「…あ、ちょっと、死んだら困るわ。レオンは何処にいるのよっ!!!」
目を回して気絶している一人の兵士の襟首を、は慌てて掴みあげると、ガクガクと振り回した。
──レオン・シルバーバーグが、ハイランド軍に現れた。
そんな噂がの耳に入ったのは、つい数日前だった。
あのルカ・ブライトの背後にレオンの智謀がついたら…。にはその様が容易に想像できた。背筋が冷える。ルカ・ブライトの狂気に、この世界は滅ぼされてしまうだろう。ミューズで起こった惨劇を、実際この眼で見てもいた。
──ルカ・ブライトは<獣の紋章>を解き放とうとしている。
疑惑は確信に変わる。自分ができる事は…。
せめてレオンをハイランド軍から連れ出す為、或いは…もし、あくまでもルカに忠誠を尽くすと言うのならその場で殺す為、は事もあろうに単身、首都ルルノイエの城に乗り込んだのである。
「ええい!! どーしてこの城は、こんなに広いのよっ!!」
城のあちらこちらで大騒ぎを起こしながら、は走り回っていた。完全に迷ってしまっている。
階段を上に登ったり下へ降りたり、廊下を左へ曲がったり右に戻ったり…。
似たような廊下、同じドアに同じ部屋。
とうとう彼女は、最初に堂々と(門を破壊して!!)潜入した、城の入り口へと戻って来ていた。
「何なのよー!! これっ?!!」
散々毒づいた後、はふと思った。
(私って、方向音痴だったのね…!!)
「おいおい…。たった一人の女を、ハイランド兵たる者が寄って集って捕まえられないのか? ったく!!」
その声に、は反射的に振り向いた。背中をまさぐって取り出した、三つに折り畳まれたままの<降魔槍>の柄で、辛うじて振り下ろされた刃を受け止める。
「へえ、女のくせに俺の剣を受け止めるとは、やるじゃないか?」
殺気を漲らせて刃を振り下ろした青年は、にやりと笑って言った。だが男と女の力の差は歴然である。は押されるだけであった。
「…こ、こんのお…!!」
何とか力を横に逃がし、剣を弾き返す。一瞬、視線が絡み合い、睨み合う。この短時間で、の全身は冷や汗でじっとりと濡れていた。
(…強い!!)
ルカ・ブライトの他にも、こんなに強い将がいるとは…。彼女は密かに、新同盟軍に同情していた。
「第一ねぇ、私はレオンに会いに来ただけなのに、どうしてこんな扱いを受けなくちゃなんないのよっ!!」
城門で見張りの兵士に身分を明かし、レオンに会わせてくれと言った。その答があの大勢の兵士の群だった。女一人にご大層な事である。そして門を破壊する事態に陥ったのだ。尤も、ハイランドの兵達にとってそれは当たり前の任務であって、素性も解らぬ胡散臭い女を、高貴な皇族方がおられる主城に入れるなどとは以ての外だと言う事を、は都合良く棚に上げていた。
「レオンって…、レオン・シルバーバーグの事か?」
青年は首を傾げた。
「レオンに何の用だ? あんた、レオンの愛人か?」
気持ちの悪い冗談、言わないでよ、と吐き捨てて、は仕方無く、もう一度自分の名を明かす。
「私は・シルバーバーグ。レオンの血縁よ。分かったら彼に会わせてよ。さもないと城中、壊して歩くわよ」
もう壊して歩いているんじゃないのか? と青年は肩を竦め苦笑する。
「アンタ、本当に面白いヤツだな。気に入ったぜ」
「貴方に気に入られても仕方が無いの。レオンはドコ?」
辛辣な女の物言いに、青年はその端正な面に浮かぶ笑みを益々濃くする。徐に女の左腕を掴んで自分へと引き寄せると、至近距離に顔と顔を近づける。
「ちょっ、ちょっと、何するのよ…」
「…でっけー眼。あのおっさんにこんな娘がいたとは…アンタの母親が美人なのか?」
「だから私は、レオンの娘なんかじゃなくて…」
いい加減説明が面倒臭くなったは、しかし青年の次の言葉に青褪める。
「しかし残念だったな。レオンならついさっき、都市同盟軍の城があるノースウィンドウに向かった所だ」
そこまで言って、青年は(しまった!)と言う顔つきになった。言い過ぎたと思ったのであろう。
「…何故、同盟軍の城に向かっているの??? …まさか?」
レオンは何かを企んでいるに違いない。の頭に浮かんだただ一つの策。
──ルカ・ブライトによる、新同盟軍の本拠地への奇襲。
その為にレオンが偵察へ行ったに違いない、と彼女は思い込んだ。まさかレオンがルカ・ブライトに反逆を企てていようとは、考えもつかなかった。の知っているレオンは、何時でも”力”に拘っていた。
(ノースウィンドウへ行かなければ!!!)
そしてレオンの首根っこをひっ捕まえて…。が指の関節を鳴らしたその時。
「何をやっている? シード? この騒ぎは一体何だ?」
ノースウィンドウへ向かう為、踵を返したの正面に、黒地に白いラインの入った軍服を着た将が立っていた。慌てて組み立てた<降魔槍>を構える。前門の狼に後門の虎と言った所だろう。掌に汗が滲む。
「よう、クルガン。まあ、暇潰しにはなったぜ」
シードと呼ばれた青年は剣を収め、クルガンへ歩み寄る。
「その女性か…? 潜入した賊と言うのは?」
「まあ、賊は賊なんだが」
「…と、言うと?」
「レオンの娘で、と言う名だそうだ…。尤も自己申告だが?」
幼い子供がお気に入りのオモチャを見るように、如何にも楽しげにシードはに視線を向ける。つられたようにクルガンも女を見るが、まるで骨董を値踏みされているようで、は落ち着かなかった。
「殿と仰いましたか?」
感情の感じられない、クルガンの冷静そのものの声に、の思考が途切れる。
「私はハイランド軍、第三軍団長を務めるクルガン、こちらは第四軍軍団長、ジョウイ・アトレイド様の配下でシードと申します」
クルガンは優雅に礼をした。まるで女性をダンスに誘うようなその柔らかい物腰とは対照的に、瞳は先程から変わらず冷たい光を発している。
…ジョウイ・アトレイド?
確かグリンヒルを落とした将の名がアトレイドだったと記憶を辿る。だが今はそれだけの殆ど無名の将だ。そのような実績の乏しい人間が、押しも押されもせぬハイランド軍の軍団長だとは、かなりの裏がありそうだ。
「先程は兵どもが失礼を致しました。これから出陣を控え、少々気が立っております故…」
成る程、やはり…。は合点する。
先日同盟軍は、軍師であるシュウの策で、ルカ・ブライトをおびき寄せた。は、マッシュの弟子であったこの男とは一面識も無かったが、彼の深謀には舌を巻いた。
ルカ・ブライトの首を取り、妹のジル・ブライトと和議を結ぶ。犠牲を最小限に押さえる、見事な作戦だった。
しかしルカ・ブライトの強大な力の前に、同盟軍は甚大な被害を受けたと言う。この機に乗じてルカは同盟軍に奇襲をかけるに違いない。内心の同様を押さえながら、表面では冷静を装う。
そんなの心の内を知ってか知らずか、クルガンが淡々と言葉を続ける。
「確かに、レオン・シルバーバーグ殿は我々に協力をして下さっています。だが今は此処にはおられません。早々にお引き取り願えますか? これ以上、この城を壊される訳にはいきませんので…」
最後の台詞は、本気なのか嫌味なのか…。多分その両方だろう。ともかくも槍を納めた。
「…解りました。今回は引き上げます。…今度来るとき迄は、兵の教育をしておいて下さるととても助かるのですけれど」
の嫌味にシードは苦笑したが、クルガンは表情を変えなかった。は城を出ようと、右に歩き出す。
「あ、其方は…」
「何ですか!!」
まだ何か嫌味でも言うつもりなのかと、彼女はクルガンを睨み付けた。
「…其方は出口ではありません…」
「へ?」
その時、突然空気が一変した。
シードもクルガンも、そして全ての兵士が、その男に跪いた。
圧倒的な存在感で、はその場に押しつぶされるのではないかと錯覚した。
ゆっくりと視線を移す。体が動かないので視線だけを移す。
「…嘘…でしょ…?」
思わず呻く。
狂皇子、ルカ・ブライト。
其処には、憎悪という白い甲冑に身を包んだ男が立っていた。
※
(この…男が…)
恐怖で、
(狂皇子…)
体中の全ての部分が、
(…ルカ・ブライト)
声にならぬ悲鳴を上げていた。
ルカ・ブライトはいきなり剣を抜いた。威嚇である。には、その太刀筋が炎を纏っているように見えた。
一歩下がるだけで切っ先を避ける。見切ったと言えば聞こえは良いが、実の所恐ろしさの余り一歩下がる事しかできなかったのだ。
「…この女は、何だ?」
ルカはから視線を逸らさず、誰に問い掛けると言うのでも無く、呟く様に声を発した。初めて耳にする”狂皇子”の肉声に、は内心驚いた。とても殺戮を繰り返している人間の声とは思えない程、ルカ・ブライトは青年らしい、涼やかな声をしていた。やはり生まれの所為か、その姿は高貴な印象さえ感じさせる。
だがは、直ぐその第一印象を撤回する事になった。
「…この女性はレオン・シルバーバーグ殿のご息女で、殿と仰るそうです」
誤解をしたまま、クルガンは答えた。
その瞬間。
見る見るうちにルカの瞳が異様に輝き狂気の光が宿っていくのを、は正面からまともに見てしまった。吐き気を覚え、手袋をしていない左手で自分の口を押さえる。ルカはその彼女の左腕を掴み、乱暴に自分の傍へ引き寄せた。
「…シルバーバーグの、女だと?」
ルカからは、死の匂いがした。だがそれは、かつての自分と同じ匂いだと、は漠然と思い出していた。
思わず顔を背けたが、ルカは彼女の顎を捕まえると、強引に自分に向けさせる。
「…確かに、シルバーバーグの人間だな。成る程、良い眼をしている。暗い眼だ。大勢の人間の命を奪ってきた者の眼だ」
呑まれてしまう。このある意味、純粋すぎる邪悪さに。
は全身の力を両腕に込めて、ルカの胸を押した。
「は…放してっ!!」
虚しい反抗だった。恐怖で動けなくなっている女の力が、ルカに敵う訳が無いのだ。
それでも抵抗するが、彼の逆鱗に触れたのであろうか。ルカは彼女の体を、大理石が美しく光る壁へ向かって突き飛ばした。と言うより無造作に投げ付けた、と言った方が当てはまるであろう。
骨の砕ける鈍い音がする。
同時に右肩に走った激痛の為、は糸の切れたあやつり人形の様に、力無くその場に倒れ込んだ。見かねたシードが彼女を助け起こし、負傷した右肩に自分が宿している<水の紋章>をかざす。
「恐れながら…皇子、やり過ぎです…」
クルガンが思わず制止する。
「クルガン、貴様、何時から俺にそんな口を訊けるようになった?」
と、ルカはクルガンを睨め付けた。
「いえ…そのような…」
クルガンは眼を伏せる。ルカは鼻で笑うと、
「・シルバーバーグ。貴様に見せたいものがある。ついて来い」
と言い捨て、背中を向けて歩き去ってゆく。
シードの<水の紋章>で癒えたとは言え、未だ鈍く痛みが響く右肩を押さえながら、は立ち上がった。ここでルカを拒否すれば、間違いなく自分の命は無い。
「…大丈夫か?」
シードが驚きの眼差しを向ける。
「…ええ、庇ってくれて有り難う。助かったわ。…皇子は、どちらへ?」
クルガンが指し示した方向へ、のろのろと歩き出す。その華奢な背中にシードが声を掛けた。
「お前、恐ろしくは無いのか?」
「…恐ろしいに、決まっているじゃない…」
解りきった事訊かないで、とばかりに、は振り返らずに答えた。
ルカの後を追って通された部屋は、このルルノイエの城の奥深くにあった。どうやら皇族か、それに近しい者しか入れないようだ。
「…此処は?」
答を期待して呟いた訳では無かったが、の問いに意外にもルカが答えた。
「<獣の紋章>を安置している部屋だ」
は驚いてルカの横顔を見た。
そんな筈はない。もし此処に、が初めて出遭う<真の紋章>が存在するとしたら、いつもの発作が彼女を襲う筈だった。
……いや、違う。
ルカの言う通り、確かに<獣の紋章>は此処にある。はその僅かな気配を捉えた。
だが…これは…?
「素晴らしいであろう? もう直ぐ<獣の紋章>は発現する。このくだらぬ世界を消滅させる為にな」
ルカは喉を鳴らして笑うと、を振り向いた。
「貴様になら解る筈だ」
この男は、私の過去を知っているのであろうか。そして右手に宿る忌まわしい紋章の事も。は静かにルカの顔を見返す。
が、やがて視線を逸らすと、
「…私には…解らない」
と呟いた。
いや、本当は解っていたのかも知れない。
一国の皇子として生まれたこの男は、何故かその身に”滅び”を纏っている。この世の全ての物と共に、自分自身の死を望んでいるような…ふと、そんな気がした。
彼女は随分後になって、この事を思い返すと、ビクトールに話したものだった。ビクトールとフリックの二人が、ルカの死に立ち会っていたと言う事を聞いていたからだ。
だがビクトールは何も言わず、ただ 頭 (かぶり) を振るだけであった。
「私を…どうするつもり?」
自分でも驚く程、穏やかに言葉が出た。あれ程、恐ろしい思いをしたと言うのに。
「俺に逆らわないと言うのであれば、暫く生かしておいてやろう。貴様は利用価値がありそうだ」
「それは…約束できないわ…」
「ふふふ…正直だな。さっき肩を砕かれたというのに、まだ懲りぬとみえる。…まあいい。その時は縊り殺すだけだ」
ルカは残忍な笑みを浮かべ、の負傷した右肩を掴む。痛みに顔をしかめたその時、クルガン、シードの両名が入って来た。
「皇子、出陣のお時間です」
ルカは乱暴にを放す。ほっと一息吐く間も無く、それは突然襲ってきた。
は、尻尾を踏まれた猫の様に暴れ始めた。その尋常ならざる様子に、クルガンとシードは呆気にとられる。右手の酷い痛みと、息苦しさ。朦朧となった意識。
──共鳴。
がその右手の甲に宿す<27の真の紋章>の一つ、<時の紋章>は、他の同胞と出遭うと、その喜びからか共鳴を起こし、宿主の肉体に変調をもたらす。は、この苦しさを彼女に与えている<真の紋章>の持ち主を捜した。虚ろな視線を移してゆく。
…シード、…クルガン…?
勿論彼らでは無い。
…ルカ・ブライト。
彼でも無い。彼からは<獣の紋章>の気配はしなかった。
──では、一体、誰が?
壁に寄り掛かり何とか立っていたが、もう限界だった。薄れる視界の中ではクルガンの背後に、白い軍服を着た人物を見た。未だ若い。17、8才位の少年だ。だがその右手に、は強大な力を感じた。
(…あれは…、刃…?)
鋭く鍛えられた、黒く鈍い光を放つ 剣 (つるぎ) のビジョンが、の脳裏に浮かんだと同時に、ぶっつりと意識が途絶えた。崩れるようにその場に倒れこむ。大理石を敷き詰めた床には、血溜まりと見紛うばかりの赤い長髪が広がった。
「おいっ!!! しっかりしろ!!!」
慌てて駆け寄り女を抱き上げたシードは、倒れた彼女の右手の手袋から光が漏れているのに不審を抱き、クルガンに目配せするとそっと手袋を外す。思わず呻いた。
「…こ…れは…!!」
いつも感情を表に出さぬクルガンも、眼を眇める。
「…一度、ジョウイ殿から見せて貰った事がある。…これは<真の紋章>の輝きだ…」
こうしてルカ・ブライトの手元には、三つもの<真の紋章>が集った。
世界は終末に向かって歩き始めた。
「…気が付かれましたか?」
まだ少女なのだろうか? 柔らかい、透き通った声が耳朶を打った。意識が戻るのを感じる。が、又直ぐ、深い闇の中へ落ち込んで行きそうになった。
はかなりの誘惑を撃ち払って、重い瞼を開いた。幾重にも見えていた天井が一つになる。焦点が合うと其処に、まだあどけなさと、はっとする程大人の表情が混在した少女の顔が、心配そうに彼女を覗いている事に気が付いた。
「…貴女は…誰?」
記憶が、混乱している。自分が何故此処にいるのかも、一瞬思い出せない程であった。
「私は、ルカ・ブライトの妹で、ジルと申します」
ジルはの額に浮かんだ汗を、乾いたタオルで拭いながら答えた。
「ここは、私と兄の母が生前使っていた部屋です。兄が貴女をここへお連れするようにと…」
ルカとその妹の母親と言えば、言わずもがな亡皇妃・サラの事だろう。このハイランド皇国で一番高貴な女性の部屋を得体の知れない女に提供し、しかも皇女を看病につけるなど…。大方、<真の紋章>を宿している事がばれてしまったのであろう。だが利用されるのは真っ平御免だった。
「…随分、破格のもてなしね…」
呟いて、彼女はいきなりベッドからがばと跳ね起きた。
「ルカは!? ルカはもう出陣したの???」
「え…あ、はい。つい先程…」
「何て事…!?」
慌てて立ち上がるを、ジルが制する。
「いけません! 動いては…。まだお体が…」
「そんな事、言ってられない!! ルカを止めなくちゃ…!!」
今にもジルを突き飛ばして、ルカの後を追おうとする勢いの彼女の背中に、
「ルカ様を止めるのは、私の役目です」
と、声をかけた者がいた。
クルガンとシードを従えて、<黒き刃>が現れた。
「…貴方は?」
<黒い刃の紋章>の継承者を、は冷たい眼で一瞥した。どうやら<真の紋章>同士の共鳴は峠を越したようだ。発作は起こらない。
「私の…婚約者で、ジョウイ・アトレイド様です」
ジルは少しはにかんで答えた。
ジョウイは長く伸ばした髪を、後ろで一つに束ねていた。には、彼の白い軍服がまるで死に装束のように感じられ、一瞬眼を細める。
「今からすぐ、私が早馬でルカ様を追いかけます。ですから貴女は要らぬ手を出さないで欲しい」
…追いかけて、それでどうするのよ…。
は心の中で毒づいた。
「…貴方、グリンヒルを落とした、ソロン・ジーの後釜ね…?」
「お前、少し口の利き方に気を付けたらどうなんだ? ジル様は皇女、ジョウイ様ももうすぐ皇族になられる方だ。命知らずもいい加減にしないと、何時か火傷するぞ」
シードが呆れたように口を開く。
「それが何だと言うの? たとえ神にだって私は従わない。私が従うのはただ一つ、私が愛する者、私が信じるものだけよ」
凛と言い放ったに、シードは絶句した。
(女豹だ…)
クルガンは、のしなやかな誇りをそう評した。
ルカの強さに惹かれ、此処まで這い上がってきたジョウイは、ルカとは違う強さを持つこの女性を感嘆の眼差しで見た。それが”母親”の強さだと言う事をジョウイは気付かなかったが、同じ女性であるジルは共感を覚えたようだった。
「貴女は…不思議な方ですね…。皆、兄には逆らえないと言うのに…」
「まあ、ね。でもその代わり、肩の骨を砕かれたけどね」
悪戯っぽく笑い、ジルを見る。申し訳無さそうな表情を浮かべたジルに、
「ああ、貴女の所為じゃないわ。気にしないで。悪いけど、この人達と話があるの。席を外してくれる?」
「でも…?」
ジルはジョウイの顔を見る。ジョウイが静かに頷くと、彼女は振り返り振り返り、母親の部屋を後にした。
「さあて、話してもらおうかな? 一体貴方達は、何を企んでいるの?」
はベッドに座り直し、男達の顔を見回した。
※
「さあて、話して貰おうかな? 一体貴方達は、何を企んでいるの?」
はベッドに座り直し男達の顔を見回した。が、誰も声を発しようとはしない。業を煮やした女は声を荒げる。
「…この期に及んでだんまりなの? グリンヒルを落とした貴方達ですもの、何も企んでいないとは言わせなくてよ?」
彼女はグリンヒルでの一連の事件を、人伝に聞いていた。
シルバーバーグの名を騙った男がグリンヒルに協力していた事。
その後ハイランド軍はミューズの敗残兵をグリンヒルに送り込み、兵糧責めにした事。
戦わずしてグリンヒルが陥落し、市長代行のテレーズ・ワイズメルがハイランド軍に逮捕寸前、何者かに救出された事。
今現在テレーズは、同盟軍に身を寄せている事。
多少の誇張はあるだろうが、が真実だと判断したのはこんな所だった。そのグリンヒル陥落作戦を指揮したのが、このジョウイ・アトレイドなのだ。
無血開城とは聞こえが良いが、実の所、人の尊厳を踏みにじるやり方ではなかったか? が、が彼の立場だったら、同じ策をとっていただろうと思うのも又事実であった。
それが戦争だ。
だが、この一点だけは許せなかった。
「貴方なのね。レオンをカレッカから連れ出したのは?」
の詰問に、ジョウイは悲しげな瞳を彼女に向けた。
「考えた事があるの!? レオンがルカに協力すると言う事がどういう事態を招くのか? この世の全てが<獣の紋章>に蹂躙されてしまうかもしれないのよ!!」
その場にクルガンとシードがいるのも忘れ、は激昂した。
「違う!! 違います、殿。レオン殿はルカにではなく、私に力を貸して下さっているのです!!」
ジョウイの意外な言葉だった。
「…あの子が、貴方に? どういう事…?」
そしては、ジョウイがルカを呼び捨てにしている事にも驚いた。ジョウイは言葉を続ける。
「貴女はレオン殿を誤解している。彼は…この戦いを終わらせようとしているのです」
ふと思い当たった。
「貴方が、あの<獣の紋章>を押さえているの? その<黒き刃の紋章>の力で?」
ジョウイは静かに頷いた。それで納得がいった。<獣の紋章>の気配が小さかった理由。しかしそんな力技が何時までも続けられる訳が無い。
「馬鹿な…!? 貴方の<黒き刃の紋章>は、いわば不完全…。このままでは貴方の命が…!?」
「力を!! 貸して頂けませんか!? 殿?!!」
堰を切ったように、ジョウイは叫んだ。いきなりの申し出に、は面食らう。
「その<真なる時の紋章>の力で、<獣の紋章>を押さえて欲しいのです!! 私の力だけでは既に限界が見えています!!」
少年の決意の深さを、は思い知った。
「あれだけの”生け贄”があれば…そうでしょうね…」
寒い。ミューズの惨劇を思い出し、自分の肩を抱きしめる。
「…貴方達…あのルカを、内部から倒そうと、言うのね…?」
苦笑し、クルガンとシードの顔を見る。
「その為に、レオンはノースウィンドウへ行ったのね…?」
今迄、忠誠を誓っていたルカへの反逆。二人の顔も強張っていた。
は大きく息を吐くと、
「…返事は、貴方が帰って来てからにするわ…」
疲れたように呟いた。
ルカ・ブライトが都市同盟軍に倒されてから、(と言うより、レオンの策にシュウが乗せられたとは見ていたが。どちらにしても、両軍にとって最大の危機を回避できたであろう)ずっと彼女はルルノイエの城に滞在していた。
<時の紋章>と<黒き刃の紋章>の力で、<獣の紋章>の発現を押さえる為、協力を余儀なくされたのだ。
それに、皇女ジル・ブライトとの婚儀によって、皇王の地位に就いたジョウイ・アトレイド…いや今はジョウイ・ブライトとなった少年の、思い詰めた瞳も気になった。
あの瞳に、レオンも惹かれたのであろうか?
レオン…。
の甥は、同じ城の中にいながら一度も彼女に会おうとはしなかった。今となってはも半分諦めていた。
永の年月…。レオンも歳を重ね、何か想う所があったのかも知れぬ。姿形は彼女をとうに追い越してしまったが、今でも愛しい兄の息子であることには変わりなかった。
は、同盟軍との戦いにおいて、ハイランド軍に一切協力はしなかった。中立を保っていたが、やはり人間である。兵士が怪我をすれば見捨てておけず、<水の紋章>で手当をするし、シードがどうしてもとせがむので、仕方が無く剣の稽古に付き合ったりもした。
父親を、兄と兄に協力した夫に殺され、またその兄も、夫の奸計で殺されたジル皇女はすっかり塞いでいたが、彼女とのつき合いで、段々笑顔を見せるようになったと、はジョウイに感謝された。
そして、運命の日。
「殿!!」
<獣の紋章>が安置されている部屋。<時の紋章>に意識を集中させ、<獣の紋章>の発現を押さえているの前に、ジョウイが跪いた。
「もうすぐこの城は落ちます。貴女は脱出して下さい!!」
虚ろな眼でジョウイを見返す。もう限界を超えていた。
「貴女のお陰で、ここ迄ルカ・ブライトの望んだ闇を防ぐ事ができました。何と礼を言ったら良いか…」
心なしか、ジョウイの瞳が潤んでいるように見えた。
「…私の事は大丈夫…。それより貴方こそ、ジルとピリカを連れて脱出しなさい…」
は力を振り絞り言った。
ジョウイは微かに表情を強張らせた。今思えば、この時彼はジルとピリカとの別れを、決意していたのであろう。
「…はい。私も脱出します。だから貴女も…」
「…私が此処を離れたら、一滴の血が流れただけでも<獣の紋章>が発現してしまう…。もう少し…」
「大丈夫です。なら…。同盟軍のリーダーなら、必ず<獣の紋章>を倒します」
「…<輝く盾の紋章>…ね?」
この城に滞在している間、ジョウイから、同盟軍のリーダー・の話を何度も聞いた。
<始まりの紋章>の二つの相を受け継いだ、二人の少年。敵のリーダーになってしまった、幼い頃からの親友同士。その結びつきは他人には計り知れない物があろう。の話をするジョウイは、何時も楽しそうにしていた。一国の皇王とは言え、真実は17才の少年なのだ。
「…でももう少し、<時の紋章>の力を強めてから行きます。先に行って下さい」
「…解りました。では先に行きます。必ず脱出して下さい」
ジョウイは立ち上がると、廊下へ向かった。その背中に、は声を掛けた。
「…ジョウイ」
「はい」
ドアのノブに手をかけたジョウイは、怪訝な表情でこちらを振り向いた。
「…良く、頑張ったね…」
今迄張り詰めていた少年の胸に、彼女の労いの言葉が暖かく染み入る。ジョウイは泣き笑いの様な笑顔を浮かべ部屋を出て行った。
は足を縺れさせながら、長い廊下を懸命に走っていた。
「そっちは駄目だ!!」
いきなり右腕を捕まれる。疲れからか人の気配も感じ取れなくなっていた。
「そっちは今同盟軍が来る! こっちから行け!!」
シードだった。その肩越しにクルガンの姿も見える。
「…シード、貴方…」
「俺達が同盟軍を押さえている間に行くんだ!!」
「でも…!?」
貴方達も一緒に…と言い掛けたの口を、左の掌で押さえてシードは囁く。
「俺達はこの国が好きなんだ。この国が死ぬ時、それが俺達の死ぬ時だ…」
はシードからクルガンに視線を移す。彼は静かに頷いた。も頷き返すと、シードの首に抱き付いた。
短い時間であったが、この二人と議論を交わした充実の日々。は彼らを、我が子の様に思い始めた矢先であった。
こうして何度、若者の死を見送ったのだろう…。
「…もう少し長生き出来るなら、アンタを妻にするつもりだったんだが…」
シードがの肩を抱いてぼやき気味に言った。死を覚悟した状況の中でも、軽口を叩く青年の豪気がは愛しかった。
「…そうしたら、毎日旦那様の剣の稽古に付き合わなくちゃならないの? 冗談じゃないわ。シード将軍の令夫人として、華麗に社交界デビューさせてくれなくちゃイヤですからね」
「ははは。本当にあんた、面白い女だぜ。…さあ、行け」
涙を押さえて、はシードが指し示した方向に走った。
だが正面からも同盟軍が現れた。二手に分かれていたのか??
仕方が無い。は走るスピードを上げて彼らの脇をすり抜ける。彼女には、同盟軍と戦うつもりは毛頭無かった。そのまま走り抜ければ、たかが女一人を追って来ることもないだろう。体力は落ちているものの、いざと言う時の逃げ足にも自信があった。
しかし同盟軍のメンバーの一人に声を掛けられ、は思わず立ち止まった。
「オデッサ???」
その名で呼ばれるとは…。心臓が一瞬、凍り付く。振り返ると、青いマントの青年が驚愕の瞳でこちらを見ていた。
「オデッサ!! お前なのか???」
青年は一歩一歩、に近づいてくる。
(…誰?)
こんな場所、こんな状況で、懐かしい名を呼ぶ青年の出現に、は少なからず動揺した。
「…いや、彼女は…死んだ筈だ…。だが、何故お前が此処にいる!? オデッサ!!」
青い瞳をした青年の必死の呼びかけに、彼女はどう応えたら良いか解らずに、ただ立ち尽くした。
「俺だ、オデッサ? 解らないのか!?」
青年は、尚も彼女を追って来ようとする。我に返ったが、事情を説明しようと口を開きかけたその時。
彼女を気遣って後ろから追って来ていたシードが、その青年を背後から羽交い締めにした。
「その女はお前達の敵じゃない!!! 見逃してやれ!! お前達の相手はこの俺だ!!」
「シード!!!」
は叫んで駆け寄ろうとする。
「来るな!! 早く行け!! あんたは此奴らと戦う訳にはいかないだろうが?!!!」
暴れる青年を渾身の力で押さえ付け、シードは叫ぶ。
「そして見届けてくれ。このハイランドの行く末を。あんたにしか頼めない」
「シード…」
はシードの最後の願いを果たすべく、踵を返して走り出した。
「走れ!! !!」
「待つんだ!! オデッサ!!」
二つの名を呼ぶ二つの叫びに、心も体も二つに引き裂かれそうになる。それでも彼女には走る事しかできなかった。
何処をどう走ったのか…。記憶が無い。
気が付いた時には、小高い丘から同盟軍の凱歌の上がるルルノイエの城を見下ろしていた。
東の空が白み始めていた。もうすぐ朝日が昇り、何事も無かった様に一日が始まるのであろう。
どうして──。
は自問自答する。
同盟軍もハイランド軍も、目指した物は同じ筈だった。共通の敵であったルカ・ブライトの死後、こんなにお互いの血を流さずとも済んだのでは無いか?
しかし──。
彼女はふっと小さく息を漏らすと、ゆっくりと 頭 (かぶり) を振った。
…この狭い大地に、二つの国が存在する事は不可能だろう…。
例え今回両国が和解したとしても、又すぐに諍いが始まるのは眼に見えている。残念ながら、人間とはそう言う生き物なのだ。
(…生き延びてみせる。私は誰よりも生きて、この国の、この世界の行く末を見届ける)
は昂然と顔を上げると、黎明の太陽に向かって歩き始めた。
──この戦いは、後に『デュナン統一戦争』と呼ばれる事になる。
〜fin〜
*みちえさまより*