願う前に、踏み出せばいい。

 焦がれる前に、叶えればいい。


 奪ってでも、攫ってでも。

 本当にほしいものは、そうしてこの手で掴み取るしかないのだから―――。 




 蜜色の束縛にかれて




 きっと。

 あたしの小指には、もう解くことが出来ない朱色の糸がきつく絡み付いているのだろう。






「あ……」

 と闇の中、溶けるよう零れたその音色に。

 シードは驚いたよう目を見開き、呆然と景色に浮ぶ彼の人を見つめていた。

 ぽっかりと、夜空に浮ぶ満ちた月に照らされ。

 さざめく水辺に立つその姿は、どこか現実離れした輝きを放っているように見えて。あまりに焦がれすぎたせいで白昼夢を見ているのだろうかと、本気で自分の目を疑った。

 期待がなかったといえば、嘘になる。

 偶然を必然に変えるため。

 そのためだけに毎夜、飽くことなく敵地の古城近くまで、わざわざ早馬を飛ばしていたのだから。

 求めていたのは残像などではなく、その人自身―――。忘れることなど出来るはずのない、彼女のぬくもり。

「………シー、ド」

 と、呼ばれた名に風が動いた。

 微かな沈黙のあと、響いたその音色がすべて。

 言葉なんて必要ない、と。肌でその存在を確かめるよう伸ばしたシードの腕が、の細い手首を引き寄せる。

「ちょっ…っ!シード?!」

「………るせぇ」

 ぎゅっと、戸惑うよう身を捩った彼女の体を無理矢理力任せにその腕に閉じ込めて。

 小さな悲鳴をあげ胸元にぶつかったぬくもりを慈しむよう、シードはゆっくり瞳を瞑ると、の髪に顔を埋めるようにして息を吐き出した。

 ずっと、夢に見るだけで空を切っていた腕が、今確かに掴んでいるもの。

 視界の前で揺れる髪を梳くように優しく撫でて、シードはもう一度その腕に力を込めた。

 何度、こうすることを願っただろう。

 あのとき。

 焼け爛れた終焉の村で、ハイランドを発つと告げたれたときには、わかっていたつもりでいたこと。

 離れてゆくしかないの心情も、それを認めるしかない自分の不甲斐なさも―――。わかったつもりで、引き止めることなく頷いて、そうして互いの道を歩き始めたはずだったのに、と。

 隣にのいない当然の未来の中で、何度も焦がれ焦燥とともに追い求めていた腕の中のぬくもりを確かめるよう、シードがその白い肌に爪をたてると、小さな悲鳴が響いた。

(……ザマぁ…ねぇーな…)

 誰より大切に守りたいのに、傷つけて。

 彼女の項に刻まれた自らの触れた痕跡を目にして、ようやく少しだけ安心できる心情に、シードは唸るよう目を細める。

 どこまでも果てることのない貪欲な欲望に、そして自分の馬鹿さ加減に笑いが込み上げてくる。



 愛しい女の前で、格好つけて―――。

 本当は、わかっているフリをしていただけだった。



 仕方ないと諦めようとすればするほど欲望は増して。

 空虚になった腕の中で、冷たくなったぬくもりを求めて。

 何度も他の女を抱いて無理矢理満たそうとしていた想いが、彼女の体温を感じた瞬間、すっと喉元を通り過ぎストンと奥の方へ流れ落ちたのがわかる。

 自分にとって、どれだけが大切な女性なのかを見誤っていたと、シードは自嘲的な笑みを浮かべ、胸元で微かに唸っている人を見下ろした。



 彼女が決めた道を歩むなら、それで彼女が幸せになれるなら―――なんて。



 そんな、自分本位な思いやりさえ無意味がないくらいに、自分にはという唯一無二の女性が必要なのだと、今ならはっきりそう言い切れる。

 本当は、あのとき。

 が泣こうが喚こうが、この腕から離すべきではなかった。

 恨まれようが、罵られようが本当に大切だからこそ、握り締めた手を離すべきではなかったのだ。




「………シード…、苦しい…よ」

 と、少し怒ったような声で。

 シードの胸元に顔を埋めた状態のままそう囁いたの吐息が、柔らかく肌に響く。

 心地よくて、まるで蜜のように甘く感じることの出来るそれに口の端を上げ、彼はふっと息を吐き出しながら腕の力を少しだけ緩める。

 

 時間が経てば経つだけ、その笑顔を側で見れないことへの焦燥感が募った。

 引き寄せれば、すぐに感じることのできたぬくもりがない世界は色褪せて見えた。


「苦しくて、俺から離れてぇー…なら。この力使やいいじゃねぇーか……」

 本気で逃げたいなら、戦場で何度もこの剣から逃れるため放ってきたその力を使わない限り、束縛を緩める気などないと自嘲的に笑い。

 どこか拗ねたような声色でそう告げると、の額を優しく小突くシードの指先が触れた場所に宿るのは、彼から贈られた烈火の紋章―――。

「…っ!そんなことできるわけ…っ!!」

 戦場でもない場所で、あなたを傷つけることが出来るわけない、と。

 抗議のため勢いよく顔をあげたの視線が、はじめてシードのそれと至近距離で重なった。

 その瞬間。

 何の戸惑いもなく、いきなり腰に回されていた手のひらがの体を掬い上げる。

「…ちょっ!なに考えてのよ…っ!!」

 そして、そのまま有無を言わさず重なり合いそうになる唇の間に慌てて指先を挟んだが、数センチの場所にあるシードの瞳を見上げ、端整な眉を吊り上げた。

 きゅっと、彼の胸元を押し戻そうと力を込めてもまったく動くことのない体に腹が立つ。

「……なんだよ?嫌…なのか?」

「嫌とか…、そういう問題じゃないでしょ?!」

 と、少しだけ声を顰め。

 いつの間にか、背中に岩肌が迫っているのを振り返り、は慌ててシードを見上げた。

 二人の斜め上に聳え立つ古城の影―――。

 崖の奥すぐ側には同盟軍の船着場の突き出た部分が見え、いくら夜半とはいえ誰か警備の人間が巡回に訪れてもおかしくない場所である。

「…誰か、来ちゃうかも知れないじゃない……」

 ここは、同盟軍の本拠地の目と鼻の先なのだ。

 自分にとっては味方の居城だが、シードにとっては敵陣に他ならない。

「そんなもん、見せつけときゃいいだろうが?」

 戸惑うよう視線を逸らし、小さく唸ったの姿に笑みを零しながら。

 ニヤリと、自らの頭上に聳え立つ古城に挑発的な視線を投げつけたシードが、そっと彼女の鎖骨に口づけを落とし、挑むような深紅の瞳でを見上げた。

「……それとも、こんなとこを見られたら困るヤツが…あの城にいるのかよ?」

「困るに……決まってるじゃない…」

 それでなくても、戦場を駆け巡るハイランドの赤毛の猛将のことを知らない人間など同盟軍にはいないのだ。

 何人の兵士が、この自分を抱き締める腕に倒され果てたか。

 それと同じだけ、ハイランドの兵士の命を同盟軍も奪っているのだから、それを責める気はないが、この場所は同盟軍の本拠地である。

 もし、シードが見つかったら…と。

 辛そうに唇を噛み締めたの視界の先で揺らいだ影。

「……そりゃ、許せねぇーな…」

 と。

 突然、シードの唸るような一人心地の呟きが響いた途端、痛いぐらいに手首を掴まれ。そのまま荒い口づけが落ちてくる。

「…っ!や…」

「…るせぇ」

 どうしたって、この束縛からは逃げられない。

 違う。

 この甘い束縛から、逃げるつもりなどない。

 ただ―――。

「俺以外の男なんて、見んな」

「…!そういう問題でもないでしょ?!…見つかったら…シードが捕まっちゃうから困る…って、そう言ってるのに……」

「バーーカ。そんなヘマはしねぇーよ」

 それに、俺にはお前に他の男が纏わりつく方が大問題だと。

 意味ありげに笑うシードの唇にの抗議は再び絡め取られ、彼女は開いたままの視界の先で、月明かりに輝く朱の髪に魅入られるよう目を細めた。


 離れることを選んだ今を、後悔しているわけではないけれど―――。

 だがそれでもずっと、触れたかったぬくもり。


(あぁ……)

 と、心の中で小さく呟いて。

 シードの背から首筋へと回された自分の小指に絡まっている、その赤く細い彼の髪を見つめていたが、納得したように瞳を閉じた。

 シードとの、解くことの出来ない朱の糸がキラキラと月光に煌めいて、綺麗で涙が出そうになる。

 敵になったからといって、忘れられるわけなどない。

 ともに過ごした温かい日々も、胸を締め付けるようなこの想いも……。


 戦場ではない場所で。

 男と女というだけの存在で。

 ただ―――。


「「……会いたかった」」


 と。

 離れた甘い唇で、重なるよう告げられたそれがすべて。


 
 太陽が昇れば、また戦場で出会うことになるとしても。

 蜜色の月が湖に揺れるこの時間に感じた熱は、きっと冷めることなどないのだろう。




 そんな。

 優しく甘い束縛に、今はただ擁かれて―――。








                                                                      *はっさくさまより*